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平家の美しい姫が身を投じて五色の石になったという伝説が残る五色浜は、美しい松林の中に歴史を誇る記念碑が多くあり、旧灯台や彩浜館、さざえ掘をはじめ、内港風景や沖に見える島々の景観がすばらしいところです。
隣接する「五色姫海浜公園」は、白砂が美しく、波静かな瀬戸内海に浮かぶ島々の姿、心和む情景に出会うことができる場所です。
大洲藩の米や物産の積み出し港として栄えた萬安港。文化9年(1812)から24年にわたって郡中代官所手代岡文四郎と町方らが築き上げたこの港は、後に郡中港とよばれました。
明治2年(1870)に防波堤の修築が行われ、翌年、石崖の先端にあった灯台は、木造から石造に改められ、現在の場所に移転したのは、大正元年(1912)です。灯火には初め菜種油が使われていましたが、明治後期に石油となり、大正初期から電灯に変わりました。夕日に浮かぶ石灯台は、港とともにひらけた伊予市の風情と美しさをあらわしています。
道後温泉の本館が建築されることに呼応して、郡中町の有志らが資金を拠出し、明治27年(1894)木造寄棟づくりの集会所として建てられたものです。日露戦争の最中、松山に収容されていたロシア人捕虜将校を接待し、明治42年(1909)には、伊藤博文が来遊しています。
平成元年(1989)に旧館の姿そのままに改築をし、五色浜の松林の緑にとけこんでいます。彩浜館の裏庭に「さざえ掘」があります。港を築いたとき螺旋状に石を積んで造り上げた堀で、潮の干満を知るためのものであり、他に例のない貴重な遺構です。
明治27年(1894)、郡中町の創始250年を記念して建てられました。表面は、宇和島7代藩主・伊達春山の書。裏面には、漢学者山下清風(武知五友)の撰文、書は河東坤(静渓)のもので、郡中町誕生のいきさつと灘町をひらいた宮内九右衛門・清兵衛兄弟の功績が詳しく述べられています。
「けだし伊予一州の美は伊予一郡にあつまり、伊予一郡の美は、今日の郡中にあつまるなり。然れども、さきに宮内二子なかりせば、則ち其の美を尽くして、今日の郡中を成し能わざりしなり。二子の功まことに偉なるかな」とあります。
宮内清兵衛が灘町をひらくにあたって中村の明音寺から本堂及び本尊を移転し、栄養寺とした宮内家の菩提寺です。浄土宗京都智恩院の末寺で、本尊は阿弥陀如来。総けやき造りの山門は、江戸時代に建立され、龍や亀の美しい彫刻が仰ぎ見れます。
本堂の左手には、六角柱笠つきの宮内清兵衛夫妻の墓、その左に兄九右衛門の墓、宮内兄弟の父・庄左衛門の墓など灘町開拓者の墓碑が立ち並んでいます。本堂裏手裏門の近くには、正岡子規の書道の師、漢学者武知五友の墓をはじめ宮内柳庵、陶惟貞、俳人仲田蓼邨ら当時の郷土を育てた学者たちの墓がしのばれます。
湊町の通り西方に重層入母屋造りの増福山門が見えます。臨済宗京都妙心寺の末寺で、本尊は如意輪観世音菩薩。大洲藩の加藤泰みちが開基した禅寺です。藩政時代は代官や諸役人の菩提寺でした。
山門を入って右側に藤井道一の墓があります。道一は、大洲藩の蘭法医鎌田正澄の門人で、大洲藩の御目付医者として郡中に在勤していました。嘉永6年(1853年)、道一は蘭法医村田蔵六(大村益次郎)を郡中の藤井家に泊め、宇和島まで道案内をしたという記録が残っています。藤井家の墓の北側には、萬安港を築いた岡文四郎「功岩自徳居士」の墓碑も残されています。
灘町通りのほぼ中央に、本瓦の大屋根に千鳥破風のある宮内小三郎邸があります。灘町は寛永13年(1636年)、宮内九右衛門・清兵衛の二兄弟が、藩主加藤泰興から広大な草木の土地を譲り受け、その一族が開拓した町です。宮内小三郎家は九右衛門の孫にあたり、幕府の巡見使や伊能忠敬測量隊の本陣を務めています。
主屋は265年前のもので、鬼瓦をのせた破風やうだつに特徴的な仕様がほどこされています。約千坪の敷地内には江戸後期の古隠居とともに、明治末期に建てられた数奇屋普請の隠居家があります。大洲の臥龍院を手掛けた名棟梁中野虎夫による名建築で、県下でも重要な文化財として評価されています。